「実際に体験したわけではない事を鵜呑みにする。」
これは非常に危険な事ではないでしょうか?
「どこの誰か分からない人が、ネット上に投稿した記事を読んで、それを真に受ける」
と言うと、それが危険な(間違っている可能性が高い)事である事は誰でも理解できるものだと思います。
しかし、このような事と同様の状態が、「エビデンス」という言葉に変わると臨床での実体験が伴わなくても正しい事と解釈されて、鵜呑みにされてしまう傾向があります。
このエビデンスについての考え方を診断と治療という場面に分けて解説していきます。
この記事の目次
まずは帰納法と演繹法についての解説
物事を判断する際に、基本的な思考過程は、帰納法と呼ばれるものと演繹法と呼ばれるもののどちからに分類されます。(他にもありますが、ここでは二大分類で考えていきます。)
ネットで検索すると、難しい言葉を使って解説しているものが多いので、簡単にではありますが私なりに解説を加えさせて頂きます。
帰納法とは、経験を繰り返す事によって、その経験をもとにこれからの判断を進めようとするものです。
例えば、腰痛患者の治療で「股関節の可動性を改善すると、腰痛が和らいだ」という経験を何度もしていると、今度は「この腰痛は股関節の可動性を改善させれば、治るのでは?」という発想を持つことがあるかと思いますが、この経験則に頼った考え方が帰納的な推論に分類されるものです。
演繹法とは、何かしらの「前提となる理論」を、持ち出して物事の判断をしようとするものです。
「腰椎と股関節(大腿骨)を繋ぐ腸腰筋の伸長性が低下すると腰痛を引き起こす。」
というような解説を読んだり、解剖学テキストからそのように推察した場合に、それを「前提」として持ち出して、腸腰筋の伸長性高める事ができれば腰痛は改善するのでは?
と考えて治療にあたるのは、その治療法が演繹的に導き出されたものと解釈する事ができます。
※かなり単純に解説しています。帰納法と演繹法について詳しく知りたい方は、専門的解説しているものを読んで下さい。(ここでは、簡単な解説で留めます。)
演繹法で判断する事が好きな理学療法士が多い
演繹法というのは、何かしらの理論を「前提条件」として用いますので、この前提がもし間違っていたら、演繹法自体を正しい方法で行えていても結論は間違ったものになってしまうので、ここが演繹法の落とし穴になります。
だいたいの場合、理学療法領域での治療選択や、そこに求められる判断は、演繹法によって導き出されます。そして、この演繹法によって行われた推論は、その思考過程を聞いた他の理学療法士にも好まれる傾向にあるかと思います。
(逆に、よっぽどの実績を残している人でない限り、経験則で物事を語る(帰納法)のは、あまり好まれません。)
演繹法で採用しようとしている前提条件が、仮に真実でないとすると、その結論も間違ったものになってしまうので、用いようとしている前提条件がどれほど確からしいかという事が、この推論の結果を左右します。
前提条件となる何かしらの理論
- たった1人の臨床家が得た経験から構築された理論
- 研究を行い、正式な手順に則って構築された理論
これらは、どちらも演繹的に推論を進めようとした際に前提条件として用いる事ができる理論です。
しかし、1の方は、何となく「確からしさ」に欠けている気がしないでしょうか?
エビデンスレベルという言葉があるのですが、その中でもっとも低くランク付けされているのが、
「権威者の意見」
です。これが先ほど挙げた1に当てはまり、「確からしさ」に欠けているとされるものです。
これとは対極にあるとされているのが、RCTで、尚且つ正しいとされる研究手法に従って行われた研究(実験)によって導き出された結論で、一般的に「正しい・確からしい」とされる傾向にあるものです。
しかし、残念ながら、この研究によって導き出された「正しい・確からしい」とされる結論を前提条件に用いて、臨床での推論を進めても、一筋縄には行かず、臨床で目の前で起きている現象と研究論文で読んだ事が乖離している事が多いのが現状だと思います。
私自身の実証例としては、
「治療者として未熟な者が、エビデンスやガイドラインにどれだけ従おうが、熟練者を凌ぐ事はない。」
というのが、私が感じる「研究が臨床と乖離している」と思うところです。(例としてはいくつも挙げられますが、冗長になるのでこれだけにさせて頂きます。)
研究結果が臨床と乖離する要因
実際の研究場面では、研究結果を正しい方向に導くために様々な要因をコントロールするのですが、臨床では、もともと様々な要因が絡み合う事が前提としてありますので、取り組み方の時点で研究と臨床は乖離してあたり前です。
しかし、何より問題だと思っているのは、
- 研究を行う際の使用する言葉の定義を研究者自身で決められる。
- 判断基準を研究者自身で設定する事ができる。
これにあると思っています。
「治った」という表現は、臨床では、症状が良くなった事を指します。そして、だいたいの場合、患者自身の口から「治った」と言ってもらえる状態にまで達する場合をそう表現します。
「改善」という言葉も同じです。
しかし、研究では、何を「治った・改善した」とするかは、研究者自身に委ねられます。
患者自身は一切「治った・改善した」という気がしなくても、最初に設定した定義をもとに「治った・改善した」とする事が可能です。
- VASが半減したら
- VASが5以下になったら
- 歩行距離が伸びたら
- FBS(BBS)が改善したら
- 腰の伸展角度が増加したら
- 体位前屈位が増加したら
これらの6項目のうち、2つ以上に該当した場合を著名な改善、1つで改善とする。0の場合に不変とする。
こんな設定で、結果を出せた(改善すると判断された)としても、まず臨床では役に立ちません。
臨床では、
- 良くなってはいるけど、後少しのところで患者自身の言葉で「治った」と言ってもらえない。
- 良くなっているが、ある程度の所で改善が停滞してしまう。
- 前屈角度は増えたけど、結局、運動すると腰痛が再発する。
- そもそも検査で疼痛を再現できないが、患者自身は日常生活上で腰痛を感じている。
こういった、具体的な個人個人の求めているもの(心理的にも、身体的にも、運動パフォーマンスとしても)に向き合う臨床では、研究者が行った研究内容と臨床とが一致しない可能性が高くなります。
これは外的妥当性とも通ずる部分だと思うのですが、難しい事は無しにしても、研究者が考えている事と、臨床で取り組むべき課題が一致していなければ、その研究による結論は当てはまらなくなります。
つまり、
研究から得られた結論を、自身の臨床に当てはめて考える事ができるのか?
これを研究論文を利用しようとしている人が確認できる能力がないといけません。
演繹法で用いる前提条件がどのような過程を経て導き出されたものかを把握できていないのに、それを臨床応用しようとすると非常に危険な推論と言えます。
また、研究の結果をもとに考察をして、その考察から何かしらを学ぼうとする事が多いと思いますが、考察は結局の所では「個人の意見」です。
最初に挙げた、もっともエビデンスレベルの低い「権威者の意見」と大きな変わりはありません。
データをとっているという意味で、単なる権威者の意見とは異なるという意見もあるかと思いますが、臨床を数値に置き換える事は非常に難しく、ここも誤りが起こりやすい部分です。
人が行った研究から何かを得ようとする時に注意する事
どういったクリニカルクエスチョンに、どういった研究手法を用いるべきか?
統計学というものは、どのように理論立てされているか?
統計学が抱える問題と、統計学が得意とする領域は何か?
こういった事を把握せずに
- ガイドラインに書かれているから。
- 研究で証明されているから。
- ガイドラインが流行っているから。
- 時代はエビデンスベースドメディシンにパラダイムシフトしており、理学療法士もEBPTを実践すべきだから。
という理由だけで、自身のクリニカルリーズニングの中に無理やり組みこもうとする行為は、冒頭であげた「ネット上に放り出されている情報」を鵜呑みにしているのと本質的には何ら変わりはありません。
実体験を伴わない、どこからか簡単に得た知識や情報というのは扱いが非常に難しいです。
どこまで信用できて、どの部分が怪しいのか、これを見極められるのは、やはりその人が培ってきた経験があるからこそだと思っています。
これが、ガイドラインを読んでもなお、未経験者が熟練者を凌ぐ事がない理由だと思っています。
扱う情報の詳細を知らないで、ただガイドラインや最新の研究論文を読みあさっても、結局求められるのは、臨床で実際の現象を診てきた経験だと思います。
どこの誰が、どのような背景(利害関係など)で世に出されたかわからない研究論文よりも、1つ1つ丁寧に患者を診てきた自身の経験の方が絶対に嘘をつきません。
また、実際の臨床を間近で見てきたなかで「優れた臨床家」だと思える人の話をしっかりと聞いて・見て、自身の治療に応用した方が、治療に関しては最も近道ではないかと思っています。
エビデンスが力を発揮しやすい場面
臨床は大きく分けて、診断(評価)と治療です。
診断に関する定義は明確ですし、すでに表に出てきている一般的な病気には黄金律という、現時点で最も優れた診断方法というのが既に導き出されています。
ここに、臨床と研究の乖離は起こりにくく、診断に関するエビデンスは構築しやすく、研究結果を臨床応用する際の危険性もそこまで高くありません。
しかし、治療に関しては、良くなっていかないものを「どうにか工夫して変化を起こす。」
というものになります。
この工夫というものは、各々の患者で異なるし、変化の定義に関しても研究者でまちまち(広義で改善・治癒という表現をしているだけ)ですので、研究結果がどうしても臨床とは乖離する傾向にあります。
そして、私たちが治療を行っていこうとしている機能的な疼痛や心因性の疼痛には未知なる領域が大きすぎて、現代の医学でどの程度把握できているかも不明です。
しっかりとした科学的根拠を持って、診断(評価)にあたり、
なかなか良くなっていかない状態に変化を起こそうとする行動(治療)は、自身の経験をフル活用して臨床に当たるか、それを既に経験してきた熟練者にヒントをもらうかが重要だと思っています。
最後にあらためて
研究では、何を「改善」と定義しているか?その定義されたものが、自身の臨床で求めているものか?これを1つ1つ丁寧に読んでいかなければなりません。
治療に当たる場面で、レビューだけをてっとり早く読んで、エビデンスベースドメディシン(もしくはフィジカルセラピー)と言っているPTOTは、権威者の意見に振り回されてかなり危険な行動をとっているという状態と本質的に変わらない事を理解しておくべきだと思います。
このシリーズでは、理学療法士や作業療法士がも、診断に関する知識を持つべきだというスタンスで解説しています。
そのためにも、エビデンスは非常に重要です。ただし、それは、そのエビデンスを使用する臨床場面を常に意識しなければいけません。
診断に関して言えば、演繹法によって行う推論過程におけるエビデンスは非常に重要な要素を占めます。
このシリーズでの、本記事以降で解説する「エビデンス」は基本的に診断(診断的行為)場面を想定して解説する予定です。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
【追記】
「なぜ診断では、エビデンスに頼っても何ら問題ないのに、治療となると、そこは重要ではないのか?」という点について、解説不足に感じましたので、次の記事では続編として制作しています。本記事と、合わせて読んで頂けると嬉しいです。